自分では、フィナを救えないと思った。 タルは基本的にのんびりしているが、いざというときの決断は早い。 たとえばフィナを救うことができるなら。
訓練所からケネスだけを連れ出して、タルはぼそりと言った。
「フィナを見つけた?」 「ああ」
疲れた、というより。 どこか痛みを含んだタルの声に、ケネスは眉根を寄せて問う。
「…。何があったんだ」 「…また息ができなくなったんだ」 「足は?」 「あまり、動かさないほうがいいだろうな」 「…解った。俺でいいんだな?」
「頼む、ケネス…」 「…タルは訓練所に戻った方がいい」 「ああ」 「…大丈夫、きっと連れて帰るさ」 「……」
フィナの居場所を伝えて、タルはもう一度頼む、と言った。 ケネスは頷いて走って行った。
「……」
タルは、それを見えなくなってもまだ見送って。
「…フィナ…」 それから、雲の少ない空を見上げた。
フィナを救うことができるなら。 タルは、全てを投げ出すことだって出来る。 笑える場所がもう、自分の傍ではないというのならきっと次の笑える場所を探してみせる。 顔を見るのもイヤなくらい、知らないうちに傷つけたというのならもう、きっと軽はずみに話しかけたりはしない。
好きなんだ。 タルにとって、フィナはまるで夢のように儚く消えやすく得がたいもので。 同時に、いないことが考えられないくらい当たり前の存在で。 嫌われても、厭われても。 それでもタルは、フィナを愛しく思っている。 どれほど長く、想ってきたか。タルにだって解らない。
「フィナ…」 この名前を呼ぶことは、もう許してくれないだろうか…?
酷く、参っていたようだった。
ケネスはあがる息を抑えながら、石の壁伝いにある小道を走っていた。 脳裏によぎるのは、あの時タルを探しに行ったフィナの後ろ姿。 ほんの1時間程前の事だといいうのに。
タルとフィナは本当に仲が良い。 それは、見ていてこっちが恥ずかしくなるほど。 でもケネスは、それが嬉しかった。 いつも無表情で無口なフィナが、タルの前だと本当に、年相応の顔で微笑むのが。
「・・・・なんとか、するさ。」
何だか使命感のようなものを感じながら目の前を見据えると。
ちいさく蹲った少年が、たった一人で泣いているのを見つけた。
「・・・・フィナ?」
「・・・・・・っ!!」
ゆっくり近づいて、声をかける。 フィナはびくりと肩を強張らせると、恐る恐る顔を上げた。
思ったとおり。 フィナの目は真っ赤で、頬も涙で濡れている。 ゆっくりと目をしばたかせ、フィナはケネスを見つめる。
くしゃりと、顔が歪んで。 フィナは声を上げて泣き始めた。
痛々しいくらい、かすれた声でフィナは泣く。 ケネスはフィナの頭をそっとなでてやりながら、どうしたものかと悩んだ。
「…」 「っ、く…ひっく…」
きっと、タルのことだ。 フィナが感情を表に出すときはタルが絡んでいることが多い。 それでも、何があったのかを早々に問うことはためらわれた。 フィナはまるで、叱られたかのように泣いているのだ。 これ以上傷つけることはできない。
ケネスは悩んだ末に、フィナが泣きやむのを待つことにした。
ケネスの声を聞いて顔を上げて。 フィナは、とうとう声を出して泣き始めてしまった。 きっときっともう彼は、タルは、嫌いになったんだ。 優しいから今までずっと傍にいてくれたけれどもうそんなことはないんだ。 タルはもうきっと呆れてしまったんだ。 こんなにも迷惑をかけて心配をかけて、やっかいな自分に。 だけどケネスが来たのはきっとタルが言ってくれたからなんだ。 どうして迷惑ばかりかけるんだろう。 どうして煩わせることしかできないんだろう。 こんなにも涙が出るほど好き。 こんなにも苦しいくらいに好きなんだよ。 ねえ、タルはもう忘れたかなぁ。 いつか見た流れ星も一緒にフンギの作ったパンをとっちゃったことも。
タル、タル。 やっかいものでごめんなさい。 迷惑ばかりかけてごめんなさい。 心配かけてごめんなさい。 それでも、やっぱりあなたが好きです。
結局。 その日はケネスがフィナを部屋まで送っていった。
泣き疲れたフィナは、帰り道、とても静かで。 それでも止まらない涙を時々拭いながら、ゆっくり歩いていた。 フィナは歩幅が狭いから、ケネスもそれにあわせてゆっくり歩いた。
食堂の隣にあるフィナの部屋まで行って。 ケネスはドアの前で足を止めた。
「フィナ。」 「・・・・・・。」 「・・・ちゃんと、寝るんだぞ。」 「・・・あり、がと。」 「・・・・・あと、な。」
本当なら、言わない方がいいのかもしれない。 でも。
こんな顔を、ずっと見ているのは、苦しいんだ。
「タルともう一度、ちゃんと話すんだ。」 「・・・・・・・ぇ」 「フィナ、お前の知ってるタルは・・・お前を嫌いになるのか?」 「・・・だ、て。だって、僕が・・僕が、悪いから・・っ!」 「・・・・違うだろう!?」 「・・・・っ・・!!!」
フィナの顔が、また泣きそうに歪むのが見える。 大声を出したからだろう。少し、震えている。
けれどケネスは、言葉を続けた。
「フィナ、卑屈になるな! お前は・・・。お前は、そんな価値のない人間じゃない。」 「・・・・・・っ」
ケネスの真摯な瞳に、また目頭が熱くなる。 フィナは彼の腕を振り払うと、バタンと戸を閉めた。
ベッドまで、辿り着けない。 その場にしゃがみ込んで、フィナは嗚咽をかみ殺す事しか出来なかった。
『フィナ、お前の知ってるタルは・・・お前を嫌いになるのか?』
ケネスの言葉が、グルグルと頭をめぐる。 だって。だって、聞こえたよ。 タルの声だった。タルの言葉だった。タルの、ため息だった。
涙はまるで枯れてくれない。 どこにこれだけの水分があったんだろう。不思議なくらい、あふれてくる。 ぬぐってもぬぐっても、ちっとも止まってくれない。
話すことなんて、できない。 何を話せばいいんだろう。どうしてまだ、話ができるだろう。 せっかくケネスが言ってくれたけれど。 きっとタルはもう、こちらを見てはくれない。 あんなに優しくしてくれたのに。あんなに気にかけてくれたのに。 迷惑と心配しか返せなかったんだ。 初めて知ったよ、こんなにも、タルが大人なんだってこと。 どれだけ我慢したの? どれだけ抑えてたの? やっかいだって、あのとき聞いていなければ今もきっと迷惑と心配ばかりをかけていたと思う。 そう思うと、今聞けたことが良かったことなのかもしれないと感じられた。それでもやっぱりとてもとてもそのことが痛くて苦しくて。 ほろりとまた涙がこぼれる。もう、ぬぐう気もおきない。
「…ぅ…」 かすれた声が、未練がましくタルを探してる。
誰かに無視されることや拒絶されることは、今までもあった。 大丈夫、きっとうまくやれる。きっときっと、これ以上迷惑も心配もかけないようにできる。
「……」
フィナは、暗い部屋の中でずっとずっと、タルのことを考えていた。 夜が明けたのに気づかないまま、タルのことを考えていた。
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コンコン。 薄ぼんやりとした思考に、乾いた木の音が聞こえた。 この部屋は光が入りにくい。 辛うじて入る小さな窓からの日差しは、もう朝なんだという事を教えてくれた。
フィナは重い体を起こして、どうぞ、と言った。
「フィナ。」
ノックの主は、ポーラだった。
「・・・迎えに来ました。」 「・・・・うん。」 「大丈夫ですか?・・・無理でしたら、私から話しておきますから。」 「・・大丈夫・・・」
ケネスが、気を使ってくれたのだろうか。 ぼうっとしながら考えていると、ポーラがゆっくりと歩み寄ってきた。
「・・・・目が真っ赤です。」 「・・・・・。」 「寝ていないんですね?」
ポーラの口調が、ちょっとキツくなった。 怖い感じではなかったけれど、フィナは少し申し訳なくなって、しゅんとなる。
自分はタル以外にも、こんなに迷惑をかけてるんだ。
「・・・・・・・。」 「・・・・・・。」
暫く、沈黙が続いて。 ポーラはすっと立ち上がった。フィナの手をとって。
「・・・何も食べないのはよくありません。幸い、今は誰もいませんから。 食堂に行きましょう?」 「・・・・・・え、あ。」
食堂。 フィナは、背筋に嫌な汗が伝うのを感じた。
「…ダメだ!」 タルは思い切りガバッと起き上がって、はあ。とため息をついた。 「……」 タルにしては珍しく、深い眠りが訪れてくれないまま、朝を迎えた。 差し込む光が穏やかであればあるほど、目に痛かった。
「どうだった!?」
カチャ、と開いた扉を内側から思い切り開いて、タルは戻ってきたケネスにつめよった。
「落ち着けよ、タル。…とりあえず部屋に送っておいた」 「そ、そうか…」 悪い、と言ってケネスを部屋へ通して扉を閉じる。
「ずっと、泣いてた」 「……」 ベッドに腰掛けて、ケネスは言う。 「タル、お前本当に覚えがないのか? あんなにフィナが砕かれていたのは初めて見たぜ」 「俺だって、初めて見たさ…」
強い拒絶。震えた肩。恐れから発せられた、声。 落ち込んでも悲しんでも。 フィナは、あんなにもタルを拒絶することはなかった。 どうした、と問えば素直に話してくれたし、泣けばいい、と抱きしめてやればためらいながら背中に手を回してきて、肩を震わせた。 いったい、どうしてあんなにもフィナを傷つけてしまったのだろうか。 解らないから腹立たしく、解らないから悔しくて仕方ない。 他の誰を悲しませても、フィナを悲しませることだけは、ないと思っていたのに…!
「タル、お前までそんなでどうする」 「あ…悪い」 「…とにかく、もう一度フィナと話すんだ。待つのは苦手じゃないだろう?」
釣りが趣味なだけに、タルはのんびり待つことに慣れている。 そう言ったケネスに、タルはぎこちなく頷いて、それからどうにか、笑った。
「ああ……そ、だな…」 何を話せばいいのかは、皆目解らなかったけれど。
「…顔洗ってくるか」 タルは、がしがしと首の後ろをかいて呟くと、立ち上がってベッドから出た。
「・・フィナ?どうしたのですか?」 「え・・・・?」 「・・・何か、怖い事でも、あるのですか?」
フィナの部屋。 ポーラはフィナの手をとって、そっと顔を覗き込んだ。
「・・・食堂には、行きたくないのですか?」
フィナはこくんと頷く。 ポーラは少し、困ったように微笑んだ。
「食堂で、嫌な事があったんですね。」 「・・・・・・う、ん。」 「・・・私には、話せない事ですか?」
「・・・・・・・・・。」
フィナも、困ったように俯く。 ポーラからは何だか甘い果物の匂いがして、目の前がふわふわする感じだ。 タルとは、ちょっと違う優しい感じ。
「嫌なら、構いません。 私が食堂に行って取ってきますから。何か食べたいもの、ありますか?」 「・・・・食べたくない・・・。」 「・・・駄目です。」 「・・だって、おなかすいてない・・・」 「食べないと、怒ります。」
「・・・・ぅ・・・」
ポーラは優しいけど・・・・ それがちょっと怖いところもある。
フィナは、また困ったように俯いた。
「、ふう」
冷たい水で顔を洗うと、頭が少しすっきりした。 それでも胸の中のもやもやは晴れてくれなくれなかった。 「…」 どうしたものか、とまた悩みだしたタルのお腹が、グウ、と空腹を訴えた。 そういえば、昨日のリンゴの後から結局何も食べてない…。 「フンギんとこ、行くか…」 独り言のように言って、タルはタオルをぽいと放ると部屋から出た。 ケネスはまだ、すやすやと眠っていた。
それじゃあ、適当に見繕ってきますね、と言ったポーラを見送って、フィナはぼんやりと自分の部屋の前に座っていた。 部屋の中で待っていてもよかったのかもしれないけれど、ポーラがわざわざ自分のために行ってくれているのにそんなことできない。 「……」 フィナは、床の冷たさにそっと手をおいた。 泣きすぎてあがった体温を、ひんやりと冷やしてくれる。
コツン、と音がして。 ポーラが帰ってきたのかと思った。 ふ、と顔を上げて。
目が、あった。
変わらない、けれど少しだけぼやけた、落ち着いた色がそこにはあった。
変わり果てた、海色ではない、兎のような色がそこにはあった。
大切な、大切な色だった。
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