苦しいのか痛いのかもよくわからない。 フィナは、まるで胎児のように小さくなった。 にぶい波の音が聞こえる。 暗く深い青を感じる。 何も見えない、ここは。 ここは、苦しい。 息ができない。酸素はない。 早くふさがなくちゃ。 全部全部閉じ込めて、ふたをして。 ただ流れに身を任せて何もかも忘れて全てを無に返して海と同化して。 そうしなければいけない。そうしなくちゃ、いけないんだ。
「っ、ぅ」 ヒュッとノドの奥が震える。 フィナの顔は、もう白を通り越して青かった。 1人ではどうすればいいのか解らないのだ。
とても小さな頃。 何故だか知らないけれど、おぼれたことがある。 そのとき、まるで自分を守るかのように仮死に近い状態になって。 そうしてここに、ラズリルに流された。 そのおかげでフィナは今ここにいるのだけれど。 理由も原因もわからない。発作のように起こるそれは、まるで時間も場所も選んではくれなかった。 ただ、こうなってしまった初めてのとき、彼が傍に居てくれて。 ああ。そうだ、いつだって…。
「…っ、」 声にならない声が、未練がましく彼の名を呼ぼうとした。 ひどいな。こんなときに浮かぶ顔が、笑顔じゃないなんて。 涙がこぼれた。
波の音だけが聞こえる。 心臓の音は遠い。 ああ。 もうすぐ、全部ふさいで…。
目の前が濃紺に染まる。 ゆらゆらと揺れて、けれどそれは目の前に留まり続ける。 全部ふさいで、目を閉じて。 そうすれば、楽になるんじゃない?
そんな声が耳に響いて、フィナは硬く硬く目を瞑る。
心臓の音が遠くなって。 波音ばかりが鮮明になって。
優しい誰かの微笑とか、笑い声とか。 悲鳴、糾弾、怒号、交じり合うその音。
ああ、その中の一つに、彼がいる。
ふわりと、視界が広がった。 圧迫された胸に風が流れ込む感触。 髪を撫でる大きな暖かい手と、頬をくすぐるのは髪の毛だろうか。
何も感じない筈の唇に感じた感触はなんだろう。
「・・・・・フィナ・・・・。」
自分を呼ぶその声は、 まだ見ぬ夢の中の女性と彼の声がまざって、不思議な音がした。
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くるりと丸まった小さな体はまるで世界を拒絶しているかのようだった。 触れた肌の冷たさに絶望する。 陶器のようになめらかな肌は、伝えるべき熱を閉ざしていた。 温かい場所を求めて、触れた肌で唯一かすかな温もりを伝えた唇に、妙に冷静な頭で以前の訓練で学んだそれを思い出す。
「フィナ…」
途中、何度も何度も声をかける。 見上げてくる大きな瞳。自分から開くことをためらう唇。
「フィナ…ッ」
それが、もう見れなくなる可能性など考えたこともなかったんだ。
何度繰り返したか。 かすかに、かすかにフィナのノドがヒュッと息を受け入れた。
「っ、ぅっ」 「フィナ!!」 「…っぁ」 「大丈夫だ、ゆっくり。わかるな」 「…、はっ、あっ…」
ヒュゥヒュゥと苦しげな息を、それでもフィナは何度も繰り返した。
「フィナ…」 背中に手を回して楽な格好にしてやる。温もりはまだ戻ってはいなかった。それでも吐く息は熱いくらいだった。 「ぁ、ぅ」 涙を流しながら、懸命に酸素を体に取り入れるフィナの髪をすき、その頬に触れ、それからタルは、フィナの胸に顔を押し付けた。
「…かった…」
全力疾走をした後のように激しく響くフィナの鼓動に、やっとやっと、タルは大きく息を吐いた。
タルはしばらく、まだ呼吸の荒いフィナの背を擦ってやっていた。
やっと呼吸がいつものか細い息に戻って。 顔色も少し戻って。 けれど、何か違和感。
沈黙が、痛い。
いつもなら沈黙がつらいだなんて感じる事はないのに。
「フィナ・・・何があったんだ?」 「・・・・・・・。」
腕の中の彼に聞いてみても、じっと俯いたまま答えてくれない。 タルの顔を見ようとしないのだ。
「フィナ。」 「・・・・・・」 「答えるんだ。」
「・・・・・・・・・・・」
耐えられなくなったのか、フィナが小さく、掠れた声で。
「離して」
そう言った。
「なに…?」 「……」 グイ、とフィナはタルの腕を押しのけようとした。 うつむいたまま。
「……フィナ?」
言葉が。 こんなにも、ノドにつかえるなんて知らなかった。
「どう、したんだよ。何かあったのか?」
問う声は無様に震えていた。
「足、痛いのか?」
フィナは、答えない。
「何があったんだ?」
首を振ることもしない。
「……」
そして、タルはもう何と声をかければいいのかわからなくなった。 何が、あったのか。 どうしてしまったのか。 解らない。 たとえばケネスなら、何か察してやれるのだろうか。 たとえばジュエルなら、フィナに言葉を返してやれるのだろうか。
グイ、と押され、フィナが腕からこぼれる。トサッと軽い音をたてて、砂に座った。
「フィナ……」 「……」
かたくなに、フィナはタルを拒絶していた。 解ることはそれだけだ。
「なあ、どうしたんだ…」 困惑しながらそう言って、触れようと伸ばした手は。
「っ、ゃっ!!」 ビクリと震えたフィナの肩と、まるで恐怖しか浮かばない声に止められる。 「……」
これ以上。タルに、何ができただろう。
「…ここで、待ってろよ」
まるでタルらしくない声がそう言って、傍の温もりは離れていった。
再び、沈黙。 離れていく足跡と、静かに迫る波音。 フィナの呼吸はとても穏やかだったけれど。
足を抱えて、壁にもたれ掛かって、小さく丸まった。 なんでタルはあんなに悲しそうな顔をしたんだろう? そんなの、わかってる。 わかってる。
あの優しい声も、心配してくれる表情も、何一つ変わっていなかったのに。 なのに、なのに!!
あの言葉が、耳の奥に響いて離れてくれない!
「夢だったら・・・」
夢だったらいい。 それとも、これが夢?
本当は・・自分はまだあの真っ暗な波の底にいて。 ずっとずっと全てを塞いだままなのかもしれない。 彼が来たのは、都合のよい夢だったのかもしれない。
そう、我が儘で自分勝手な、理想の夢。
「・・・・っ・・う・・・ぅ・・」
そうだ。 こんなに、こんなに、好きになっていた。 いつのまにか、知らない間に。
好きじゃなかったらよかったなんて、思えないほどに。
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