この手にどのくらい守られてきたのか。
 この手がどれくらい守ってこれたのか。




「お、フィナー、どこ行くんだー?」
 後ろからの声に、フィナは少し立ち止まって、だけれど振り返らなかった。
「? おーいフィナー?」
 トテトテと歩くフィナの後ろを、タスタスと歩きながらタルは首を傾げる。
 何か怒ってるのか?
 でも、何もした覚えねぇけどなぁ。
「…おーい、フィーナー」
 どしたー? と、いくら声をかけようと、いくら追いかけようとフィナはいっこうに止まる気配も、返事を返す気配もなかった。
「…」
 気は、長いほうだと思う。
 タルは少なくとも、物事がうまくいかないからといってイラだったりはあまりしないほうだ。
 それでも、こうして声をかけて返事がないと、あまりいい気はしない。
「…」
 何か、言えない事情があるのかもしれないとも思った。
 だけれどそれはそれでなんだか、むしゃくしゃする。
 自分の知らないフィナ。自分とは関係がない、フィナ。
 今までは、フィナの世界はとても狭かったから。
 だから、タルの知らないフィナなんていなかった。
 けれども今。
 こんなにもたくさんの人たちに囲まれて、こんなにも広い世界で、フィナは生きている。
「…怪我すんなよー」
 どうにかそれだけ声をかけて、タルはきびすを返した。
 難しいことはあまり考えたくないがなんとなく。
 なんとなく、フィナにはもう、自分がいらないのだろうと、思った。
 それは成長なのか、巣立ちなのかそれとも、孤独なのか。
 う〜ん、と悩みながらタルは甲板へと続く扉を開けて、閉めた。
 パタンと音がして、フィナはゆっくりと振り返った。
 真っ白な顔で、フィナはもう見えないタルの後ろ姿を追った。
「……」




 傍にタルがいないことが、こんなにもスースーするとは思わなかった。
 船の中ですれ違うことがあれば、タルはいつもどおり声をかけてくれたし、笑ってくれた。
 ちゃんと笑って返したつもりだけれど。うまく笑えていただろうか。
 フィナは、油断すれば苦しくなりそうな息を整えて、ふう、と息をはいた。
「……」
 目の前には、エレノアにもらった海戦術のプリント。
 勉強がしたいと言うと、すぐにこれをくれた。
「…」
 難しいなぁ、と首をひねりながら、フィナはほとんど白湯に近いお茶を飲んだ。
 もともと、お茶を飲むという習慣自体がなかったフィナだから、味がなかろうが問題ではない。
 それよりも、こうして自分の部屋でお茶が飲めるということがすでに、フィナにとってはありがたくて申し訳なくて、やっぱり嬉しいことだったのだ。
 ふう、ともう一度息をついてプリントに向かおうとしたところへ、ノックの音がした。
「?」
 フィナは、誰だろう、と思いながら、はい、と返事をして自ら扉を開けた。
「よお」
「っ、テッドさん…」
 珍しい人の来訪に、フィナは心底驚いた。
 それから慌てて、どうぞ入ってください、と扉を大きく開けて招き入れた。
「いや、部屋に入れてもらう用事じゃないんだ」
 手を前に出して遠慮するテッドにフィナは首を傾げる。
「?」
「あの、な…」
「はい」
「…その…」
 実に言いにくそうなテッドに、フィナの脳内はますますクエスチョンマークでいっぱいになる。
「…釣り」
「え?」
「お前、最近釣り、しないんだな」
「……」
 そういえば。
 いつか、マグロがおいしかった、と手紙に書いてあった…。
 フィナは、テッドを見上げる。
「あの…」
「…」
 テッドは、少し戸惑うような目でフィナを見おろす。
「…あの、釣り、行く…?」
「…いいのか」
 パッと笑顔になるようなことはないが、それでも目が嬉しそうに輝いて、フィナはくすりと笑った。
「はい。あ、少し、待ってもらえる、かな…」
「ああ」
「じゃあ、やっぱり、入って…」
「いや、でも」
「あと少し、なん、だけど。その…もしかしたら…」
 ちょっと時間がかかるかもしれないんだ。
 言いにくそうにそう言うフィナに、テッドはそれ以上断るのも変な気がして、それじゃあ、とフィナの部屋にお邪魔した。


「あの、薄いんだけど…」
 どうぞ、とお茶を差し出したフィナに、どうも、と言ってテッドはそれを一口飲んだ。
「…」
 飲んだとたん、顔をしかめてしまったテッドに、フィナは恥ずかしそうに問う。
「おいしく、ない?」
「…いや、そんなことは…」
 ない。と、思う。
 というか。味が、しない、から。おいしいもおいしくないもない。
 テッドはどう答えればいいのかわからず、とりあえずお茶を置いてフィナの手元に目をやった。
「…海戦か?」
「あ、うん。エレノアさんに、もらったんだ」
 何度も何度も、書いては消したような跡があるプリントに、テッドは目を細める。
 こんな。こんな時代で、こんな場所にいなければ。
 きっとフィナは、穏やかな一生を送れただろう。
 ただの騎士団員として。あるいは、ただの町民として。
 もしかしたらもっと日に焼けて、健康的な少年になっていたかもしれない。
 どれだけの可能性と未来を押さえ込んで、今ここにいるのだろうか。
「…テッド、さん?」
「あ、ああ。悪い」
 ジッとフィナを見ていたのだろう、テッドは慌てて思考を止め、目線をプリントに戻す。
「これか?」
「あ、うん…」
「…ふうん、なあ、これさ。こっちの」
「え? あ、…あ、そうか」
 フィナは、テッドの言葉に頷きながら、何度もそっか、そうか、と繰り返した。




 2人は今、釣り場へ行くために階段を降りていた。
 先ほどのプリントをエレノアに提出してから、フィナはずっとテッドさんすごい、ありがとうテッドさん、と何度も繰り返す。
「ありがとう、テッドさん」
「いや、別に…」
 大したこと、してないし。
 感謝されることが、まだ少し懐かしくてくすぐったくて、テッドはもごもごと言葉をにごした。
 それでもフィナは嬉しそうに、何度もお礼を言った。
「そ、それより。今日はあのでかいのと一緒じゃないんだな」
「……」
 そう言ったとたん、表情を曇らせたフィナに、テッドはしまった、と思った。
 言ってはならないことだったのか…。
「…」
「…」
 なんとなく沈黙してしまいながら、2人は釣り場へと続く扉を開けた。
 サァ、と潮の香りのする風が吹いて、フィナは目を細めた。
「…」
「あ」
 噂をすればなんとやら。
 そこには、先客のタルがいた。
「? おー…」
 テッドの声に振り返ったタルは、ニカッと笑った。
「よ、お前らも釣りか?」
「あ、ああ」
 頷くテッドの隣で、フィナはうるさい心臓をどうにか抑えようと必死だった。顔が、赤くなりそうでうつむいた。
「今日はあんまだなー」
 タルはそんなフィナの様子に気づくこともなく釣竿に視線を戻した。
 ウゲツが、フィナとテッドに頑張ってくださいッス、と釣竿を渡した。
「…」
 受け取ったはいいが動かないフィナに、テッドは困ったように息をつきながら、タルの隣に座った。
 フィナはテッドの少し後ろにテポテポとついていき、それから、タルとは反対の、テッドの隣に座った。
「…」
 タルは、一度だけテッドとフィナのほうへ目をやったが、何も言わなかった。
「何が釣れたんだ?」
 沈黙に耐えられず、話を切り出したのは珍しくテッドだった。
「んー、イワシにアジに、エビってとこか? 残念だけど、マグロは釣れてないぜ」
「…そうか」
 本当に残念そうな声を出したテッドに、タルはくつくつと笑う。
「そんな簡単に釣れたら、うまいって感じねぇだろ」
「まあ、な…」
 それもそうか、と納得するテッド。
「…」
 フィナは、そんな2人の会話をできるだけ聞かないよう、必死で他のことを考えていた。
 それでも、耳に入ってくる言葉は、声は、消えなくて。
「……」
 フィナは息苦しさに、コホ、と咳を1つした。




「…」
 そんな様子を、上から見おろしていた者がいた。
 珍しく部屋から出てきた、トラヴィスである。
 腕の中の猫は、気持ちよさそうに寝ていた。
「…」
 サァ、と吹いた風がトラヴィスの無造作に結んだ髪を揺らす。
 声なんて聞こえないけれど、なんとなく、フィナが居心地悪そうなのは解った。
 あまりにぎやかなのが得意じゃないトラヴィスにとって、貴重な和み相手でもあるフィナ。
 ほうっておくと2人とも話さないので、ただただ沈黙が流れるのだが。
 それでも、こんなにも空気の重たいフィナの沈黙は、トラヴィスは知らない。
「…」
 さてどうしたものか、とゴソゴソとポケットを探って、硬い何かを触り当てた。
「…」
 それは、小さな石だった。
 たぶん、ぼうっとしているときに拾ったんだろう。無意識に。
「…」
 トラヴィスは、腕の中の猫を起こさないように気をつけながら、ひょい、とそれを落とした。




 コン、と頭に何か当たって、テッドは上を見た。
「…」
「…」
 あ、と口が動いた気がする。
 相手はしばらくジーッとテッドを見てから、ヒラヒラと手を振った。
「…」
 振り返すべきなのか、それとも文句の1つでも言うべきなのか迷っていると、上を見上げているテッドに気づいて、フィナも上を見上げた。
「あ、トラヴィス、さん」
「…」
 そういえば、そんな名前だったか。
 テッドは、フィナが上を向いたので自分はさっさと視線を海に戻した。
 フィナは、ヒラヒラと手を振るトラヴィスに、首を傾げながらフリフリと手を振り返す。
「?」
 どうしたのかな、と不思議に思っていると、シィ、とでも言うように口元に指をあてたトラヴィス。
 ゴソゴソとポケットを探って、それから。


「…、?」
 コンッと、テッドは再び頭に何か当たって上を見た。
「…」
 なんだよ、と睨むが、そこにはトラヴィスの姿はなかった。
「???」
 テッドは不思議そうに首を傾げて、それからまた海に視線を戻す。
 フィナは、その間もずっと上を見ていたから知っている。
 テッドが海に視線を戻したすぐあと、ひょこっとトラヴィスが顔を出した。
「…」
 またもヒラヒラと手を振るトラヴィスに、フィナはこっそりとテッドを見る。
 トラヴィスはそれに、言っちゃだめ、とでも言うように、指を口の前に持っていく。
「…」
 フィナは、小さくコクリと頷いた。


「…、っ」
 三度頭に何か当たって、テッドは勢いよく上を見た。
 サッと隠れた、しっぽが見えた。
「おい!」
 いい加減にしろ! と怒ったテッドに、フィナはおかしそうに笑う。
 トラヴィスはそれでもジィっと隠れていたが、やがて観念したように顔をだした。
 腕の中で、猫がニィ、と鳴いたのが聞こえる。
「何がしたいんだ、アイツは…」
 ブツブツと文句を言いながら、テッドはまた海の方へ視線を戻した。


 そして。
「…っ、バレてまでやるな!」
 4度め、テッドは立ち上がって怒った。
 そしてやっぱり、トラヴィスは尻尾を出しながらも隠れた。
「ニィ」
「猫鳴いてるのが聞こえてる!」
 テッドの声に、少ししてトラヴィスはひょこりと姿を出した。
 フィナは、体を折って笑っている。
「……」
 ヒュッと空を切る音がして、フィナはビクッと体を揺らした。
 クルクルと糸を竿に巻きつけながら立ち上がるタルに、テッドが不思議そうに問う。
「? もうやめるのか」
「ああ。ちょっとな」
 なんとなく怒りがそがれたテッドは、上にいるトラヴィスのことはもう気にしないことにして、前に視線を戻した。
「じゃあな、頑張って釣れよー」
「ああ」
 タルの言葉にフィナが何かを返す前に、タルはパタンと扉を閉じて去ってしまった。
「…」
 口を開きかけていた、けれども何を言えばいいのか解らなかったフィナは、胸の奥がツキリと痛むのを感じた。
「…」
「…」
 テッドは、うつむいてしまったフィナに、どうすればいいのか解らず、こっそり息をはいた。
「…、」
 コン、と頭に何か当たる。
「……」
 もう、振り向いてやるものか、とテッドは半ば意地になって、気にならない風を装った。
「…、」
 それでも、コン、とまたも頭に当たる。
「…、」
 テッドは、その後5回、それでも我慢した。






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